関が原の戦い後、慶長年間(1600年頃)に、広瀬より城を松江に移し松江城を築城した堀尾吉晴が、天満宮をこの白潟の地に奉還した。その時代より、神を奉じた白潟天満宮の神輿が松江城まで渡御するのが慣わしになったと言われている。
神輿とは神様の乗り物であり、年に一度、白潟の地より松江城まで城主吉晴に接見に向かうのである。江戸期の堀尾家・松平家共に天神信仰が厚く、庶民もこれに習い祭礼・神輿等が盛んになった。
祭礼等の費用はことごとく藩主より支給され、
天神祭りはこの地方一番の庶民の祭りとなる。
神輿は宮神輿であった。
現在、天満宮に安置されている重要文化財級の江戸宮神輿が3基ある。
これらの宮が製作された時代である。
当時天神裏、灘町在住の名工、小林如泥の作であろうか。
明治20年代の新聞によると、松江城に建てられた西南の役記念碑の除幕式に
天神宮神輿が参加とある。
天神町の若者たち、崇敬者が担いでいたと思われる。
大正3年の新聞によると青島陥落記念祝賀に天神神輿・大砲二輪加で行列を披露とある。
また大正天皇即位の大典では宮行列に参加の写真がある。
戦争による中断後、天神町の若手により天神町青年会が結成され、
天神神輿を復興、担ぐようになる。
本宮・町会子供神輿など。宮神輿を「わっしょい担ぎ」にて行う。
全国に先駆け地域の祭り振興と神輿文化の発展、
明るく楽しい街づくりを目指して、第1回松江天神祭・女神輿を開催。
現在まで女神輿の伝統が継承されている。
女神輿参加者により女性だけの神輿会、睦会結成。
天神神輿連結成。
天神町青年会を中心に運営してきた神輿渡御を広く開放し、
誰でもが運営に参加できる組織に変換。
松江市内各企業に呼びかけ、企業御輿の参加を打診。
合銀・島銀・中電などの団体が参加。
江戸、三社祭に参加、三社の本社を担がせて頂くなど各地の祭りに遠征。
親睦を深めるとともに教えを頂く。
また、神輿以外の鳴り物として「天神太鼓」を有志により結成。
天神祭りはもとより各地の祭り、催しに参加する。
今まで町会子供御輿3基のみであったが、
広く松江市の子供たちに神輿文化を継承していく目的で
城下町子供御輿パレードを開催。松江市近郊の子供会の御輿の参加を募る。
毎年5~8チームが参加するようになる。子供御輿6基新調。
江戸時代の文化財である宮神輿も
これ以上の渡御で破損すると修理する宮大工がいないとの声が上がる。
現代の名工により新平成天神神輿【本宮】の製作が1月に始まり、7月に完成。
天神祭りにて初披露される。
担ぎ方を「わっしょい担ぎ」から江戸前の「ソイヤ担ぎ」に変更。
担ぎ方の研鑽、修練に励む。
神輿文化での街づくり貢献が認められ中小業団体中央会より表彰を受ける。
島根県開催のねんりんピック大会(全国健康福祉祭)開会式において、
新本宮神輿を披露し、全国の大会参加者より賞賛を浴びる。
天神神輿400年、天神神輿連結成20周年記念行事として、
重文級、江戸期の宮神輿を担ぎ松江城天守閣まで渡御。